ZIPANG-5 TOKIO 2020 追憶~昭和の時代へ~ ・・・【寄稿文】 日原もとこ

生物御研究中の昭和天皇                      鎹八咫烏 蔵


皇居の御花畑。昭和天皇・皇后両陛下と内親王様方          鎹八咫烏 蔵


昭和生まれは、パンデミックを超えるための試練の時代だった。


私ども昭和の戦中生まれの世代から見ると、明治生まれの先輩たちに対しては、失礼ながら遥か昔の人種という距離感があった。


ある種の頑迷さと封建制度の名残を確りと受け継ぎ気軽な話が通じない方々。それは、尊崇感と同時に、離れ座敷に住まう方々と捉えていた感がある。


同様に…平成生まれの若い方々から見れば、昭和生まれの人種を見るとき、同様な感覚を以て位置づけているのだろうか?


とはいえ、昭和生まれの最後は1989年12月31日生まれであるけれど、翌日1990年1月1日 (平成元年に入って一番に生まれた人)とは一日遅れの違いだけだから、十把一絡げにはいかない。ある時代を語るとき、大抵は、その時代の大雑把な共通認識によって会話が成立しているようだ。


単純に時代の比較は難しい。例えば明治年間とは


天皇の在位期間で決まるので、その長短によって、印象は大いに異なる筈である。期間が長いほど、大きな出来事の遭遇率は高くなる。

左から「明治天皇」、「貞明皇后」(昭和天皇の母)、大正天皇


因みに、明治時代は明治天皇の即位式から退位までの期間 (1867年2 月13日〜1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)となり、在位期間は45年間に及んだ。


特徴は当に武家社会と決別しての開国と西洋崇拝であり、建築や風俗に見る和魂洋才の時代であった。


銀山温泉(山形)

山形県にある銀山温泉は何故か人の心を惹きつけてやまない。銀山川を挟んで向かい合う宿群は、その独特な3〜4階建ての木造建築洋式が互いを引き立て合うからか?一軒一軒鏝絵などを採り入れた異なるファサードの演出に工夫を凝らすなど、全体的にその華かなる風情が桃山風と謳われる。

まさに大正モダンの真骨頂を醸しており、殊にプロカメラマンにとってはうってつけの被写体でもあり、若い女性群や、海外観光客からは浴衣掛けの温泉街として情緒満点の人気を集めている。  


しかし、大正時代は大正天皇の即位が1912年(明治45年)〜1926年(昭和元年)7月30日の15年間だった。比較的安定した時代で、更に日本全体の洋風化が進んだと謂れ、大正モダン、モボ、モガが闊歩した時代だった。


昭和27年(1952年)渋谷駅前広場


けれども、昭和時代は天皇即位から崩御迄(1928年11月10日〜1989年1月7日) の在位期間は61年間にも及び、史上3番目の御在位となった。これもかなりの年月だから、この間はまさに激動の時代だったのである。そしてその多面的国体の変容は日本史上、曾て類例が無いほどの目まぐるしさだった。関東大震災も経験した上、度重なる戦争で大量の犠牲者を出し、遂には史上初めての原子爆弾による被災国になった。そして、完全なる敗戦国としての屈辱を味わった。
しかし、人民の立直りは目を見張るものがあったのもこの時代であった。


1990年代 渋谷

その奇跡的な高度成長を果たし、国際的にはJAPAN as NO.1 !!と呼ばれる程の目覚ましい経済的成長を遂げたのもこの時代である。


その陰には様々な形で大企業による人為的公害も出してきた事実も記憶に残っている。


しかし、人々は貧しくとも煤煙で霞む空の下、1DKの 通称うさぎ小屋に住み、何故か前向きに、明るく必死に働き続けたのだ。この時代の主人公こそ、昭和を支えた団塊の世代と呼ばれる年代。第二次ベビーブームの中で生まれた、今のお齢にしてほぼ70代に差し掛かった方々である。


こうして、日本の復興力の素早さは世界から称賛をあつめました。しかし、何故か決定的に欠落したものがあるのです。それは何か?


高度成長とはGDPのことです。決定的に足りないもの…それが 日本の文化と美意識でした。


私は、未だに電柱や街中に張り巡らされた電線の汚らしさ、巨大看板の氾濫に胸を痛めております。


経済優先主義のデリカシーの無さ。本当に恥ずかしいことです。これは欧米先進諸国に完敗している事すら気付かないレベルです。あたかも、G8 (主要国首脳会議 )の中でチンパンジーが背広着て胸を張っているが如し…?


何故、巨大企業の電力会社のやりたい放題を、見て見ぬふりをしているのか?
恥ずかしくないのか?問いかけたいのです !! 


そこで、このやり場のない義憤が一昨日の記事、金谷ホテルの話へと繋がりました。


 日光金谷ホテル


 世界遺産 日光東照宮     

  

私は小中高を通じてミッションスクール育ち。そんな関係で中学まで、広島の女学院に通い、沢山の米国から派遣された英語教師が居ましたから、アメリカから送られた、色彩豊かな中古品を授業に利活用出来て、乙女心に、夢いっぱいの時代を過ごす事が出来たのです。


昭和32年頃道玄坂(右端は現在の109あたり)


しかし、家庭の事情から東京へ転居し、高2で同系列の青山学院へ転校したのです。憧れの東京でしたが、敗戦国日本の戦後は実に貧しく、拠点は渋谷駅とはいえ、まだまだ、寂れた街でしたね。


我が家は今の代々木公園(当時はワシントンハイツと呼ばれその後オリンピック選手村となる)それに沿ってバス道路が走り、そこを抜けた所にありました。その起伏に富んだ広大な台地は一面青々とした芝生に覆われ、駐留米軍の基地として多くの家族が住んで居て、米軍は下級兵士からして、たいへん恵まれた処遇を受けていました。日本の庶民にとっては、垂涎の的だったのです。必然的に私も物の豊かなアメリカに憧れる一人でありました。


日本昭和村は、岐阜県美濃加茂市にある都市公園である。昭和30年代の里山をイメージしてつくられた公園で、 2003年(平成15年)4月16日にオープンした。 正式名称は「平成記念公園」であるが、誰もそんな名前では呼ばず、「日本昭和村」と呼んでいる。

道の駅として道の駅日本昭和村を併設している。日本昭和村で昭和の暮らしを観ることが出来る。
最近、特に若い女性たちに人気があり、何となくホンワカとした昭和時代の雰囲気に惹かれるようだ。因みに村長は、中村玉緒さんである。


さて、この辺りで断片的ですが、7歳少女の記憶から、
昭和の時代にタイムスリップしてみましょうか?


広島県 原爆ドーム(正式名称:広島平和記念碑)

私こと色紐子の小5~6年生時代に通った本川小学校は、この原爆ドームの側を流れる本川(当時は太田川)の川向うに対面するように建っていた。(勿論、原爆投下の中心地だった。) ここで学んだ諸先輩たちの消息は誰も知らない。 合掌。


本川(当時は太田川)と元安川の分岐点に冷たい川を見下ろすように建つ原爆ドーム


振返れば、
S.20年3月10日の東京大空襲、そして、全国各地への爆弾投下が相次ぎ、そして決定的な惨劇が襲い掛かりました。それは S.20年8月6日続いて同年同月、8月9日。広島市と長崎市への原子爆弾投下によって、日本は完全に敗北を認めたのです。家族、親戚一同、居間に集まり、茶箪笥の上に置かれた小さな箱型ラジオの下に集まり、畳に額をつける程ひれ伏して、ジッと耳を澄ませました。 天皇陛下は神様の存在でしたから当時は国民初体験の出来事です・・・


玉音放送終戦詔書(大東亜戦争終結ニ関スル詔勅)  

(全815文字) ですが… 以下
サワリのみのご紹介です。


「朕※¹深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國※² ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 」 …後略…


※1. 朕とは 天子・ 天皇が使う自称などの意味をもつ

※2 米英支蘇四國とは当時の米国、英国、支那(中国、ソ連(ロシア)を指す。


見るからに難しそうな言葉の羅列!7歳児にはちんぷんかんぷん !! でしたが、大人の会話を聴いていて、日本が負けたんだ…と、ガックリ来たのと同時にあの毎日鳴り響いた 「警戒警報発令 !!」という、けたたましいサイレンとともに地域放送があると、低空を編隊を組んだ米軍戦闘機 B29が旋回する恐怖。
それと同時に綿入りの防空頭巾を被り、庭の片隅に掘られた防空壕に逃げ込む訓練を繰り返す、あのムンムンする熱気の篭もった洞穴 (すぐにやられる痛痒いアカイエ蚊の巣窟) から縁が切れるし…そしてあの陰気な、夜間の敵機から隠れる様に電灯の傘を黒い布で覆った「灯火管制」から解放される ❢ とすぐさま、閃いたのは…こんな一大事にも拘らず幼女の計算高さ、小賢しさ…  


日本が負けるなんて…例え戦況際どくなっても、必ずや神風が吹く国なんだ…誰しもがそう思っていたのです。


私は広島市から5km離れた郊外に一時疎開していた国民学校1年生1945年の夏でした。


広島市は岩国米軍基地と呉 米軍基地とを結ぶ進駐軍往来の拠点でした。

その後、敗戦国となった日本は全国各地至るところ、
昭和22年9月迄は連合国軍占領下にあり※、当時は進駐軍が日本中をジープで牽制、闊歩していました。やがて進駐軍は2年間で引揚げ、駐留軍がS.27年頃まで残留しまして、未だ、GHQ((連合国軍最高司令官総司令部) だのPXだのという簡略名はTVもない時代、 Far_East Network Tokyo (FEN) は毎日、ラジオ放送から聴かない日は無いという耳ダコ言葉で、日本でアメリカを味わう象徴語のようなものでしたね。


※1945年(昭和20年)9月2日に、日本政府代表は東京湾の横須賀沖に浮かぶ戦艦ミズーリ船上で、英、豪、米、和蘭、中、露国等連合国との間で降伏文書に正式に調印した と言うことなのです。


私は青学の高等部にいた時から、まだ渋谷など瓦礫もたくさん残る、道玄坂や宮益坂の表も裏も煤けた感じの街でしたが、それでも起伏の多い御用邸などがある裏通りは樹木も鬱蒼とした御屋敷町で遠回りでも美しく、森閑とした風情を求めて通学路として選んで歩いたものです。


爆弾投下地点は意図的に選んで投下された

 広島県 海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)


広島県 旧日本銀行広島支店(市重要文化財)


広島県  レストハウス(元大正屋呉服店)


しかし、成人して気づいたことは、擬洋風建築など、立派な建築物や構造物などのある所はは7年間というもの殆ど舐め尽くすように、全てが立ち入り禁止のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部) が接収管理していたのです。 しかも、それ等は見事に意図的に爆弾投下を避けていたことがありありと分かるのです。


連合軍が保護したのは三井、住友、三菱系列の豪壮なビル建築、手の込んだ擬洋風建築等、伝統的美観地区だった

言い換えれば、選択的に計画的に保護されてきたことに、テキは良きにつけ悪しきにつけ感服するばかり。


銀座 和光 銀座四丁目の交差点にある、銀座のランドマークとして知られる和光本館。


例えば、銀座の和光や松屋デパートなどはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部) として、当初から利活用されてきたのです。


これは、西洋と日本の環境への美意識の差だと思います。
幾ら、GDPが世界一でも圧倒的な負けの日本です。 


なので、幼き頃から、ハイティーンにかけて、アメリカという国への憧れは尋常ならざるものがあったようです。


アメリカ留学なんて夢のまた夢、
その一つが、日光の金谷ホテル、箱根の富士屋ホテル、奈良県の奈良ホテルなんぞは、どうしても、いの一番に行くのだと決めてから…ポケットと睨み合わせて泊まれたのはその後何十年経たことか… 


さて、そこで、立川基地に勤務していた私の従姉妹が、その関係で日比谷のPX(米軍用語 PostExchangeの略。 日用品や家電、食品等のスーパーのような類)
にはよく、連れて行かれました。


日光金谷ホテルメインダイニング


そこで、知り合った将校クラブを退役された、元将校の叔父様がいつも呟いていた「日光…結構」という語呂合わせを思い出し、外国人も、憧れの場所だったのでしょう。そして、その後、従姉妹共々訪ねた、金谷ホテル(サロンでお茶しての日帰り)のドライブがまざまざと思い出されたわけです。
その時の私の満足度と言ったら、喩えようもない、お姫様気分でしたね〜
(苦笑)


日光金谷ホテル「大黒山散策路」

日光金谷ホテルの裏山(通称:大黒山)を散策する、一周30〜40分ほどの、コースである。
山頂には、明治期に建てられた大黒様をお祀りしている小さなお社があるなど、豊かな自然のなかにも、ところどころで、厳かな雰囲気を醸し出している。


日光金谷ホテル「大谷川散策路」

日光金谷ホテルの庭園から大谷川の河畔まで続く、往復10分ほどの、ちょっとした散策路。
豊かに流れる大谷川のせせらぎに耳を傾けながら、のんびりと散策できる。
大谷川の河畔からは、神橋を真横から見上げるように眺めることもできる。


嗚呼〜到頭紙面の割当が超えようとしています。
私の本当に申しあげたかったこと。お伝え出来ていませんが、一寸だけ書き添えますね?
広島の戦後処理はなかなか進まず、現在のような姿になったのは私が東京に転居して以降のことでした。
憧れの東京も、同じ様なものでしたね〜 荒廃したままだったのです。裏に回れば瓦礫の山と薄汚れた町並みには樹木の緑が見られず、生活環境に色がなかったのです。私は樹木の緑と美しい環境色彩に飢えていたのです。

金谷ホテルは、当時の私にとって、理想的な景観だったというお話でした。

いま、私の終活期の役割は語り部。失礼致しました。
また、お逢いする日まで  



続く・・・



【寄稿文】日原もとこ

東北芸術工科大学 名誉教授 / 風土・色彩文化研究所 主宰 /
日本デザイン学会名誉会員 / 日本インテリア学会名誉会員 /
まんだら塾 塾長 /
 


協力(順不同・敬称略)

東武鉄道本社 〒131-8522 東京都墨田区押上二丁目18番12号 電話番号 03-5962-2356

金谷ホテル(株)〒321-1401 栃木県日光市上鉢石町1300番地 TEL :(0288)54-0001

尾花沢市観光物産協会 〒999-4228 山形県尾花沢市上町6丁目1-16 電話: 0237-23-4567

ぎふ清流里山公園
「日本昭和村」〒505-0003 岐阜県美濃加茂市山之上町2292−1 電話:0574-23-0066

一般社団法人広島県観光連盟
〒730-0011 広島市中区基町5番44号広島商工会議所ビル8階電話 082-221-6516

環境省 〒100-8975 東京都千代田区霞が関1-2-2 中央合同庁舎5号館 TEL 03-3581-3351



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発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局) 



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ZIPANG-5 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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