戸定歴史館
(旧徳川家松戸戸定邸/国指定重要文化財、旧徳川昭武庭園/国指定名勝を含む)
8言語で徳川家の住まいの魅力発信!
明治時代、戸定邸を建設しこの地に暮らした徳川昭武は、最後の将軍・徳川慶喜の実弟です。
この兄の命を受けて慶応3年(1867)、パリ万国博覧会へ将軍の名代として渡欧、ヨーロッパ各国で「プリンス・トクガワ」と呼ばれ、各国の宮廷で次期将軍候補として丁重にもてなされました。
彼は、二度のフランス留学を経験して国際的見識を深め、宮廷外交を展開した真の国際人でもありました。
1867年のパリ万国博覧会からおよそ150年の時を経て、昭武の生涯を紹介する戸定歴史館と旧宅である戸定邸の多言語対応を行ったことは、彼が体現した国際化に通じる取り組みです。
戸定邸では、建築物としての歴史的価値だけでなく戸定邸をとりまく時代背景を含めた総合的な価値を尊重しています。
8言語パンフレット
徳川昭武は西洋に傾倒するだけにはとどまらず、自国の伝統や文化に深い理解を示し、作庭など様々な趣味にその意向を反映させました。こうした「和洋折衷」ともいえる文化人の感覚を表現すべく、平成28年3月に作成・配布しているパンフレットには日本の伝統色を用いて、格調の高さを表現しています。
【目的】
・国際観光拠点化
・多言語(8言語)情報発信システムの整備
・デザイン及び美観向上による魅力向上
・2020年東京オリンピック・パラリンピックへの準備
幕末の水戸藩情勢、水戸徳川家の教育を御紹介!
令和3年の大河ドラマの主人公・渋沢栄一は、戸定邸(千葉県松戸市)の主・徳川昭武(あきたけ)ゆかりの人物です。昭武の兄・慶喜は江戸幕府最後の将軍となり、昭武と渋沢は幕府の終焉をパリで知らされることになりました。
3人は水戸藩9代藩主・徳川斉昭が推進した水戸徳川家独自の学問(水戸学)から大きな影響を受けています。戸定歴史館で、収蔵品や初公開資料など約70点の展示を通じて幕末の水戸藩の情勢、水戸徳川家の教育をご紹介します。
松戸市の戸定歴史館では特別展「プリンス・トクガワ-新時代への布石」を開催し、収蔵品や初公開資料など約70点の展示を通じて幕末の水戸藩の情勢、水戸徳川家の教育をご紹介します。
今年はこの特別展を含め、年間を通じて大河ドラマと歩調を合わせ、関連テーマの特別展を開催していきます。本展初公開の書「清德」はドラマにも登場する尾高惇忠の書です。尾高は渋沢にとって指導者的存在であり、義兄(妻の兄)としても近しい間柄でした。
明治期には初代富岡製糸場長を務めた後、渋沢の事業に参画するなど、生涯にわたり渋沢と深い繋がりがありました。
この特別展をご覧になれば、大河ドラマがますます面白くなること請け合いです。
尾高惇忠書「清德」★初公開
德川慶喜 写真 1866-67年頃
德川昭武 写真 1866年
特別展1「プリンス・トクガワ-新時代への布石」
会期:令和3年2月6日(土)~6月13日(日)
※月曜休館(祝日の場合はその翌日)、会期は変更になる場合あり
会場:戸定歴史館展示室
入館時間:9時30分から16時30分(閉館17時)
住所:千葉県松戸市松戸714-1(松戸駅東口下車徒歩約10分、駐車場有)
費用:戸定歴史館入館料 一般150円(戸定邸との共通入館券320円)
高校・大学生100円(共通入館券160円)
※中学生以下無料
展示詳細
第1章 慶喜と昭武-日本を背負った兄弟
後に江戸幕府15代将軍となる徳川慶喜は、大塩平八郎の乱が起きた天保8(1837)年、水戸藩主・徳川斉昭の7男として生まれました。
ペリー
1867年のパリ万博へ派遣され「プリンス・トクガワ」と呼ばれた弟・昭武は、斉昭の18男として嘉永6(1853)年、ペリーが浦賀に来航した年に生まれました。二人とも幕府の体制を大きく揺さぶる事件が起きた年に生まれています。
慶喜と昭武は、母親が異なるうえ16歳年が離れていました。しかし、慶喜は父・斉昭に、昭武は兄・慶喜にその才覚を見出され、引き立てられていきます。慶応3(1867)年には、慶喜は将軍として、昭武は将軍名代として、それぞれ内政と外交の最前線に立って日本を背負うことになるのです。
第2章 水戸学 父・斉昭の教育-学問が時代を動かす
水戸徳川家9代藩主・徳川斉昭は、藩政の改革に積極的に取り組み、藩の学校である弘道館を創設して文武を奨励しました。「弘道館記」には尊王攘夷思想が表されています。
斉昭は、息子たちに四書五経や武芸などの基本をしっかり学ばせ、ひとりひとりの個性をよく見ていました。特に慶喜の資質を高く評価しますが、きちんと教育しなくてはいけないとも考えていたようです。
一方、8歳で父・斉昭を亡くした昭武の資質を見抜いたのは、兄・慶喜でした。御所を守る要職「禁裏御守衛総督」を務める慶喜を支えるため、昭武は満10歳で軍勢を率いて京都へ向かいます。兄弟は、禁門の変という困難を共に乗り越え、お互いを知り、絆を深めていきました。
第3章 慶喜の将軍就任と改革-渋沢栄一登場
渋沢栄一は、天保11(1840)年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。藍玉の行商も手がける裕福な農家の長男でしたが、青年時代には親戚にあたる尾高惇忠の教えを受けて「尊王攘夷」思想の下に倒幕運動に参加するなど、その行動力、才能は家業の枠にはおさまりませんでした。
一方、徳川慶喜は10歳の頃、「御三卿」のひとつ、一橋徳川家へ養子に入ります。慶喜本人は父・斉昭が政治の表舞台から追われるなどの政変もあり、順風満帆とはいかない中、家臣・平岡円四郎の勧めによって文久3(1863)年、渋沢栄一が一橋徳川家へ仕官することになりました。
慶応2(1866)年、慶喜が第15代将軍となり、渋沢も幕臣になりました。29歳の新将軍は、自ら幕府軍の改革に乗り出すとともに、打診されていた万国博覧会への参加を決定。幕府はついに海外へと視野を広げたのです。
第4章 いざ、万国博覧会へ
日本は初参加となる世界の表舞台、万国博覧会。万国博覧会とは、どういった催しなのでしょうか?
万国博覧会は、1851年のロンドン万国博覧会(The Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations-すべての国の産業製品の大展示会)が第1回とされています。原題が示している通り、世界中の産業製品を一堂に集めて公開する場として数年に一度開かれるもので、1867年のパリ万博は第5回にあたります。自国産業の最新成果を発表し、国力をアピールする目的がありました。
日本も将軍が招待を受けていましたが、国内情勢や安全面が問題視されたため、将軍の弟である昭武が名代(=代理)に選ばれました。渋沢も、仕官以降、その才覚が高く評価され、昭武の側近くでサポートする係としての同行が決まりました。
幕府は、商人の力も借りながらパリ万博への出品物をそろえ、ついに日本は自ら世界へ出航したのです。
参考
尾高惇忠は明治期に初代富岡製糸場長を務めた
富岡製糸場 錦絵(富岡市)
ZIPANG-4 TOKIO 2020和洋技術を駆使した木骨レンガ造の建造物・「旧富岡製糸場 繰糸場」は国内養蚕・製糸業を世界一の水準に!
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10655368/
ZIPANG-2 TOKIO 2020「函館市 西洋建築大博覧会(Webサイト)特別編 最終話」(ペリー来航)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4757269/
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
松戸市役所 〒271-8588 千葉県松戸市根本387番地の5 電話番号:047-366-1111
文化庁 〒100-8959東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話番号(代表)03(5253)4111
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ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
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