後鳥羽上皇行在所跡(旧源福寺)
承久3年、後鳥羽上皇が隠岐に御遷幸された時、源福寺内を行宮とされ19年間お住みになられた。後鳥羽上皇は諸芸に長じられ、特に和歌を御読みになり遠島百首等の歌集を残された。
源福寺は、明治の廃仏毀釈で取り壊されたが、院の御製にある「勝田池」と「礎石」が当時を物語っている。源福寺は、別の場所に建て替えられた。
海士町「後鳥羽院後鳥羽天皇御火葬塚」
この島に配流された後鳥羽天皇の山稜。崩御された後、京都にご遺骨を納めるために火葬され、その一部が納められている。
島民劇「海士のごとばんさん~承久の海の彼方から~」
海士町「島民劇」
後鳥羽院の島での19年は、京都の日々とはまったく異なったはずです。後鳥羽院の目に映った隠岐、隠岐人が感じた上皇の存在を、島民参加の創作劇により伝えます。
開催日:令和3年10月16日(土)夕刻の予定
隠岐の島【海士町】
持続可能な島づくりを目指して
海士町は、「自立・挑戦・交流」を町政の経営指針に掲げ、「ないものはない」を合言葉に、島国であるが故の価値や生き様を島内外に発信しながら、様々な分野で島の生き残りをかけた挑戦を続けている。
また、島の歴史や伝統文化を「継承」し、島に根付いた半農半漁の暮らし、地域の絆や信頼から生まれる支え合いの気持ちを大切にしながら、「団結」して、みんなでしゃばる島づくりを目指して・・・。
海士町政指針
自立・挑戦・交流×継承・団結 〜心ひとつに!みんなでしゃばる(引っ張る)島づくり〜
海士町らしい価値観
「ないものはない」(なくてもよい、大事なことはすべてここにある)
今も息づく「太古の文化」
約600万年前、大規模な火山活動によって誕生した隠岐には古代から人々が住み、遙か3万年前から、矢じりなどの石器に用いられた「隠岐の黒曜石」を輸出していたと伝えられる。
島根県における北前船の活用
北前船 琴平丸模型 石川県所蔵
古代の文化を受け継ぎながら、隠岐はやがて、時の天皇が配流となった遠流の島、北前船が風を待った海運の拠点港となり、多様で豊かな文化を形成した。
太古の薫りと彩りをたたえた、一風変わった隠岐の文化。その伝統は、島に暮らす素朴な人々によって、いまも守り継がれる。
「蹴鞠」
奈良 大和「談山神社」の蹴鞠の様子
蹴鞠は中国から仏教の伝来と共に伝えられたといわれる。その当時の形が、現在私たちが目にする蹴鞠と同じであったのかは不明である。平安時代になると鞠を蹴り上げる蹴鞠が行われたことが確認されており、一条天皇(在位986-1011)の頃には蹴鞠が宮廷貴族の遊戯として流行した。
京都御所において蹴鞠保存会による蹴鞠の様子
天皇として初めて蹴鞠をされたのは後白河天皇とされ、その孫の後鳥羽院も蹴鞠をとても好まれ、伝わる処によると「此の道の長者」と称され、後鳥羽院の時代に作法や次第の基が出来たと…。 『後鳥羽院御記(後鳥羽院御鞠之書)』では沓や 襪(しとうず:沓下)のはき方に関する記述がみられる。
「琵琶」
中殿御会図(模本)作者 狩野養信模 江戸時代・19世紀 東京国立博物館 所蔵
建保6年(1218)、順徳天皇(1197~1242)の頃に行なわれた中殿御会の様子を描いた絵巻。中殿御会とは、内裏の清涼殿で行なわれた管絃と和歌の会のこと。
琵琶の名器「玄象」を奏でる順徳天皇のほか、参加した31人の貴族の姿が描かれている。
(けんぽう/じゅんとくてんのう/だいり/せいりょうでん/かんげん/びわ/めいき/げんじょう")
音楽はいつの時代も人々に愛され、音色や歌声は心を動かす。日本で古くからある楽器の一つ琵琶は、奈良時代に中国から伝わったものとされる。
当時としては最先端の楽器であり、独特の音色には霊力もそなわっていると考えられ、宮中でも人気となった。その名品とされる「玄象(げんじょう)」は、天皇の王権を象徴する累代の宝物とされ、天皇が秘曲を伝授(奥義を極めるために弟子が師匠から授かる曲の相伝)された後に奏でることが出来たとされる。
後鳥羽院は、帝師である二条定輔より元久2年(1205)に秘曲を伝授され、この玄象を用いるに相応しい音楽界の帝王ともなった。なお、伝授された元久2年は、院が力を注がれた『新古今和歌集』の完成披露の催しの年でもあった。
「笠懸」
富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)における「流鏑馬」
近江神宮(滋賀県大津市)における「流鏑馬」
出雲大社(島根県出雲市)における「流鏑馬」
多芸多能の後鳥羽院は学芸に通じるだけでなく、体格にも恵まれ武芸も得意としていた。
院の勇壮ぶりを伝えるエピソードとして有名なのが、盗賊退治である。
当時都を騒がせていた盗賊がおり、院は配下の武士にこれを捕まえるように命じたが、しかし、盗賊はこれをたくみにかわしてゆき、なかなか逮捕にいたらない。そこで、院自らが陣頭指揮を取り、この盗賊を川辺においつめる。そして最後は、院が船の舳先に立ち、櫂を振り回して盗賊の動きを止め捕まえたというものである。その後、この盗賊は院の部下となったとのことである。
当時の天皇や貴族については、宮廷での儀式や文系事業というイメージもあるが、実際には武芸もたしなんでおられた。特に後鳥羽院は、狩や水練など、これまでの天皇があまり関わっていなかった分野にまで興味を示され、武士からも憧れの存在となっていたようである。
その中でも好まれたのが「笠懸(かざがけ)」でした。笠懸は流鏑馬の余興から生まれたもので、平安末期から鎌倉時代にかけて盛んにおこなわれた武芸である。鎧を着て馬を走らせ、矢で的を射抜く流鏑馬とは異なり、烏帽子、直垂姿で笠や笠状の板を鏑矢で射るもので、院は御家人の平賀朝政を師として鍛錬を重ね、上達された。
「相撲」
奈良時代に行われた貴人による相撲観覧は、平安時代に入ると「相撲節(すまいのせち)※」と呼ばれる朝廷の7月恒例の年中行事となった。相撲節の形が整えられると、平安後期には神仏に見せる相撲が芸能の一つとして祭礼で行われるようになったのでした。
平安末期に、相撲節はすたれたが、相撲そのものは後鳥羽院が院御所で守っておられたと伝わっている。藤原定家の『明月記』元久2年(1205)7月27日条にも記載あり。
本図は、紫宸殿の南庭で、相撲節会(すまいのせちえ)を行っている様子を描いたもの。天皇と相撲との関係は、『日本書紀』にみえる第11代垂仁天皇の時代まで遡り、野見宿祢(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力を争ったのを御覧になったのが始めとされている。
平安時代以降は,相撲節会として毎年7月に諸国から集めた相撲人が行う相撲の取り組みを天皇が御覧(天覧)になる儀式となった。左右の近衛府が相撲人を分け、左方は葵、右方は夕顔の造花を頭に着けて犢鼻褌(たふさぎ、下帯)姿で相撲を取った。
勝った方は着けていた挿花と狩衣等(入場時に着ていたもの)を次の番の相撲人に渡すことになっていた。この節会は平安時代の初頭から毎年行われていたが、院政期(11世紀)に停止・再興を数度繰り返し、やがて承安4年(1174)を最後に途絶えたとされる。本図は、天明3年(1783)に松岡辰方が書写したものである。
補足資料
多賀大社「古知古知(こちこち)相撲」
多賀大社(滋賀県彦根市)「古知古知(こちこち)相撲」の様子
重陽の節句に斎行される九月古例祭。
四月の古例大祭に次ぐお祭りで、式中、町内の青年二人による豊凶を占う「古知古知(こちこち)相撲」が執り行われる。
「古知古知」とは古い出来事をしのぶという意味で、同大社の神主だった犬上の君らが伊吹山の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したという故事にちなむものである。
重陽の節句の9日、多賀町の多賀大社で古例祭があり、農作物の作柄を占う恒例の「古知古知(こちこち)相撲」が奉納された。 「古知古知」とは古い出来事をしのぶという意味で、同大社の神主だった犬上の君らが伊吹山の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したという故事にちなむもの。
対馬小茂田浜神社大祭子ども相撲
文永の役(1274年)で元軍に敗れた宗助国は軍神となり、毎年11月12日に士族の末裔が伝来の鎧に身をかためて小茂田浜に集い、神主が海に向かって鏑矢を放つ「鳴弦の儀」が行われるようになったことから、この日に行われる。
遠流の島
海士町「金光寺山」標高164mの台地状の山で、流人・小野篁の史跡がある伝説地。
隠岐が遠流の地と定められたのは聖武天皇の時代、神亀元年(724年)で、江戸中期になって一般の罪人が流されるようになるまでは専ら身分の高い天皇や公家、役人などの政治犯が配流の主人公であった。
隠岐が遠流の地となったのは、都から遠く離れているというだけでなく、島での生活に問題が少ないということもあった。流された貴人が飢えたり、生活に危険を覚えるような場所ではだめだったのである。
その点、隠岐は海に囲まれ作物豊かで既に黒曜石以来の歴史のある土地であったことが選ばれた理由になっているのであろう。
隠岐に流された著名な人物には、鎌倉時代に権力闘争に破れた後鳥羽天皇と後醍醐天皇、そして平安時代の歌人小野篁※などがいる。
※小野 篁
遣唐副使という役に任ぜられていた篁は、遣唐大使藤原常嗣と船の事で争い、唐へ向けて船が出る日に仮病を使って乗船しなかったことが嵯峨上皇の逆鱗に触れ、承和5年(838年)隠岐に流された小野篁。
赦免の日を願ったという金光寺山の六社権現や、篁の住居跡が豊田地区に残っている。古今和歌集に掲載されているかの有名な歌で、隠岐に移る途中で詠んだ歌が、
「わたの原八十島やそしまかけて漕ぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟」。
隠岐に着いてから詠んだ歌が、
「思ひきや鄙ひなのわかれにおとろへて海人のなはたきいさりせんとは」。
隠岐だからこそ生まれた文化
名神大社
隠岐が昔から栄えていたことを証明するもののひとつが神社である。隠岐には古い神社が多く、日本最古の全国神社リストである延喜式神名帳(927年)に載っているもの(式内社)だけでも16社(内、特別神社1社含む)あり、強い力を持つ神を祀る神社を指す「名神大」の格が与えられた神社が4社(伊勢命神社、水若酢神社、宇受賀命神社、由良比女神社)含まれる。
延喜式神名帳に載っている日本全国の神社2861社のうち、名神大の格を与えられたのは226社(約7.9%)しかなく、現在の島根県の範囲(令制国で出雲国、石見国、隠岐国の3国)では隠岐以外には2社(出雲大社と熊野大社)しか見られない。(式内社は出雲国に187、石見国に34)。そのなかの4社が隠岐に集中していると言うことからも、当時の隠岐の重要性がうかがえる。
また、このことを証明するのは神社だけではない。現存する日本最古の歴史書とも言われる古事記(712年)の冒頭にある、国生みのエピソードでは隠岐(隠伎之三子島またの名を天之忍許呂別)が日本の国土の中で淡路島、四国島に続く3番目(日本書紀では5番目)に生まれたとされる。このような文献に残る古代の記録と、遺跡から見つかる黒曜石などの証拠を合わせると、先史時代から古代にかけて繁栄した隠岐の姿が見えてくる。
宇受賀命神社(うずかみことじんじゃ)
海士町内に社とつく神社は地区氏神としては15社、特別神社が1社存在する。その中に郷社として、宇受賀命神社がある。宇受賀命の神は、宇受賀村の中心として海士の島を領していた土着の神様で、勢力のあった神様である。
延喜式神名帳にも載録されている古格の神社で、五穀豊穣、海上安全、安産のご利益があることから、昔から島民の信仰を集めてきた。
創建は842年より古く、祀られている宇受賀命(うづかのみこと)は、この地の守護神として伝えられる。 古来より朝廷の崇敬が篤く、時の有力者より社領や神田など、たくさんの寄進があった。
伝説には、西ノ島町の「比奈麻治比賣命(ひなまちひめみこと)」の美しさにひかれた宇受賀命。同じく姫に求婚する大山神社の神さまとの力比べに勝利したことにより、姫と結ばれたと伝えられる。
海士町 話題の絶景スポット「明屋海岸(あきやかいがん)」
中央に聳え立つ岩のハートこそ縁結びの証なのか・・・
姫との間に柳井姫(ヤナイヒメ)が生まれ、「奈伎良比賣神社(なぎらひめじんじゃ)」の御祭神になったとされる。この御子神をお産みになったのは明屋海岸(あきやかいがん)という絶景スポットで、明屋海岸から宇受賀命神社にいたる海岸線の道は、日本海唯一の神々の婚姻に由来する「縁結び、子宝、夫婦円満」のご利益のある道である。
御朱印は隠岐神社へ
御朱印は、後鳥羽上皇を祀っている「隠岐神社」で手に入れることができる。
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、崩御されるまでの19年間を隠岐で過ごされた。
補足
宇受賀命神社(うづかみことじんじゃ)
海士町指定文化財
所在地:宇受賀地区
祭 神:宇受賀命
詳 細: 続日本後記や、延喜式などにも載禄されている古格の神社である。大正 4 年に本殿が燃えてしまい、文書郡が燃えてしまったといわれているが、 火災を免れた大般若経は町指定有形文化財に指定されている。
行 事
・宇受賀命神社のあご石神事は町指定無形民俗文化財
・元旦祭…歳旦祭と呼ばれており、宇受賀命神社に参拝した方に、お供えした おもちを切って振舞うが、男性のみで女性には振舞わない習慣とな っている。
・例 祭…7 月 10 日、14 日 に開催する。7 月 10 日は「夜(ヨ)まつり」が行わ
れる。7 月 14 日は御供え物(米、玄米、酒、餅 2 つ、魚、サザエ、昆
布、野菜、果物、塩、水、まき(村尾家より)、ビール(かつては麦酒を作って供えていた)をお供えし、祝詞を読んだ後、浦安の舞を奉納する。
玉串をし、お供えを下す。宮司挨拶があり、直会が行われる。
お供えのおもちを参拝者全員にいきわたるよう切り分ける。4 年に1 度に大祭りがあり、神輿と道中神楽が行われる。
海士町の建築物「古民家」
村上助九郎邸 海士町指定文化財
所在地:中里地区
建築日:明治 33 年(1900)
詳 細:村上家は中世以来、海士地域の有力者として の活動が確認でき、隠岐に配流された後鳥羽上皇の世話をしたと伝えられる隠岐を代表する旧家のひとつ。古文書が数多く残り、平成 26 年 3 月に資料館として開館し資料を公開している。村上家の歴史に限らず、この地域に 暮らした過去の人々の営みや当時の社会のありようを伝える。
村上家資料館 入館前日までに時間指定にて要予約(08514-2-1966)
村上家は、承久の乱(1221年)により配流となった後鳥羽上皇に忠誠を尽くし、上皇が崩御されてからも累代忠勤として御火葬塚守部を務める歴史深い家である。村上家は古くから「森屋敷」とよばれる豪族であった。
村上家 当時の面影を偲ぶ門
村上家当主は、代々村上助九郎名を名乗り、現当主は48代目になる。これは、36代目当主・村上九右衛門秀親が、当時京より配流されていた公家・飛鳥井少将雅賢から、蹴鞠の免許状を授けられたときに命名されてからのことであり、上皇御愛用の品々など村上家が所蔵していた宝物は、現在、歴史民俗資料館に展示され、当時の面影を偲ぶ門を見ることができる。
次回に続く・・・
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
後鳥羽院顕彰事業実行委員会
一般社団法人 海士町観光協会
〒684-0404 島根県隠岐郡海士町福井1365-5 電話:08514-2-0101
海士町役場 〒684-0403 島根県隠岐郡海士町海士1490 電話:08514-2-0111
隠岐観光協会
〒685-0015 島根県隠岐郡隠岐の島町港町塩口24 隠岐合同庁舎別館1階
電話:08512-2-1577
一般社団法人 対馬観光物産協会
〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672-1 電話:0920-52-1566
一般財団法人 奈良県ビジターズビューロー
〒630-8361奈良市池之町3 奈良県猿沢イン3階 電話:0742-23-8288
公益社団法人 石川県観光連盟
〒920-8203 石川県金沢市鞍月1丁目1石川県庁 電話:076-201-8110
石川県名古屋観光物産案内所
〒460-0008 愛知県名古屋市中区栄4丁目16番36号 久屋中日ビル3階
電話:052-261-6067
一般社団法人 隠岐ユネスコ世界ジオパーク推進協議会
〒685-0013 島根県隠岐郡隠岐の島町中町目貫の四61番地 電話: 08512-3-1321
公益社団法人島根県観光連盟
〒690-8501 島根県松江市殿町1番地 電話:0852-21-3969
出雲大社 〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東195 電話:0853-53-3100
近江神宮 〒520-0015 滋賀県大津市神宮町1番1号 電話:077-522-3725
多賀大社 〒522-0341 滋賀県犬上郡多賀町多賀604電話:0749-48-1101
富士山本宮浅間大社
〒418-0067 静岡県富士宮市宮町1−1電話:0544-27-2002
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話:03(5253)4111
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
島根県・隠岐の島・海士町の関連情報です。
下記アーカイブ リンク記事をご覧ください。
ZIPANG TOKIO 2020「天地創造『国生みの島・淡路』 第一話 沼島(おのころ島)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3106202/
ZIPANG TOKIO 2020「天地創造『国生みの島・淡路』 第二話 自凝島神社(おのころ島神社)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3115381
ZIPANG TOKIO 2020「御食国 淡路島の食文化 古代から継承する日本伝統のおもてなしの極意とは(特別編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3123000/
ZIPANG TOKIO 2020「国生み神話の始まりの地 最初に生まれた島『淡路島』(第三話)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3113504
ZIPANG TOKIO 2020「文化庁 ニッポンたからものプロジェクト『海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 ~御食国若狭と鯖街道~』」
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ZIPANG-2 TOKIO 2020「~心やすらぐ美食の郷、御食国(みけつくに)~若狭の国 小浜(その3)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4809145/
ZIPANG TOKIO 2020
「お伊勢参らば お多賀へまいれ お伊勢お多賀の 子でござる 多賀大社」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2993655
ZIPANG-3 TOKIO 2020「多賀大社には『天照大神』の 親神様が祀られています。~近江~」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5706503/
ZIPANG TOKIO 2020「天智天皇から始まる小倉百人一首、そこは かるたの聖地『 近江神宮 』 憧れの朱の楼門(前編)」
99. 人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は 後鳥羽院
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ZIPANG TOKIO 2020「古都大津京を開かれた 第38代天智天皇をまつる神社『近江神宮』(後編)」
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わぬやこのシマに 親ハロジうらぬ わぬ愛しゃしゅん人ど わ親ハロジ
「私はこの土地に 親・親類はおりません 私を愛してくださる方が 親・親類です」
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