弘前ねぷた 見送り絵 川村岩山 画(前)と 葛飾北斎 画(後)
弘前ねぷた 鏡絵
津軽の自然景観
津軽外ヶ浜真景図
津軽外ヶ浜真景図
津軽外ヶ浜真景図
津軽外ヶ浜真景図
津軽半島の北端部である、鬼泊(現在の青森県東津軽郡今別町綱不知(つなしらず)付近)から今別を通り、算用師峠を越えて小泊に至る道筋の風景を描いたものである。
海岸等の風景が中心であり、繊細な描写や鮮やかな彩色がみられる。特に、波の白は鮮明である。遠景に見える山や地名については、註釈が入れられている。集落の様子はあまり詳細には描かれず、わずかに遠景でのみ描かれている。人物も少なく、同行者と考えられる旅装束の男一~二名が描かれている図があるに過ぎない。
本図のなかに雨の日に写生したと思われる図がいくつかあり、写実性を重んじて描かれたことがうかがわれる。
著者である大野文泉は白河生まれ。幼名は梅之丞、万平。名は安勝。文泉は号。年少の頃、藩主の命で江戸に出て、晩年の谷文晁に師事して絵を学び、帰国してから白河藩の御用絵師となり、松平定信に仕えている。
葛飾北斎
葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏
北斎ならばどう描く⁉
青森県下北半島 仏ヶ浦
下北半島 仏ヶ浦…絶景かな!津軽の自然景観が「ねぷた」に登場する日を待ち望んで…
仏宇多(仏ヶ浦)
津軽海峡に臨む下北半島の西北部、佐井村牛滝から福浦に至る海岸には、海蝕作用によって形成された、高さ100mにおよぶ仏像または蓮花の形をした凝灰岩の奇岩が延長2〜3kmにわたって立ち並び、如来の首、十三仏、五百羅漢、蓮華岩、天竜岩など、それぞれの奇岩には、浄土のイメージを重ねて仏にちなんだ多くの名前が付けられている。
下北半島の霊山である恐山に行った修験者は、縫道や石山などの狭岩を踏み分けてこの海岸に到着し、ここを最後の修験場とした。
海岸沿いに2kmにわたって連なる白緑色の奇岩の数々。風雪厳しい冬の荒波が削り上げた大自然のアートも、海が穏やかな夏に眺めれば「仏ヶ浦」の名にふさわしい極楽浄土のような浜。
透明度の高いエメラルドグリーンの海と、象牙色にたたずむ奇岩の群れのコントラストが美しく、まるで極楽への入り口のよう。それもそのはずで、死者があの世に旅立つ時、或はこの世に戻ってくる時に、立ち寄る場所が「仏ヶ浦」だと言われている。
ねぷた絵
津軽デジタル風土記 ねぷた見送り絵プロジェクト
弘前のねぷた絵の素材には、江戸時代後期の絵本類、特に葛飾北斎らの画にもとづくことはよく知られているところであり、その第一人者であった竹森節堂(1896〜1970)以来、とりわけ北斎やその弟子が描く水滸伝や伝奇小説の挿絵が多く使用されてきた。
長谷川達温(1921〜1989)も、やはり江戸時代の小説挿絵から着想を得ていることが、残された作品や下絵の分析から明らかになっている。
今回のプロジェクトは、そのようなねぷた絵作成プロセスのDNAを継承し、新たな見送り絵を令和の世に提案することが出発点出発点にあった。
ここに掲載するねぷた見送り絵三〇点は、全て川村岩山氏の手により、江戸時代の読本(よみほん)と呼ばれる伝奇小説に描かれた女性たちを、デジタル画像から描き起こしたものである。ねぷた絵の原点に返り古典的な素材に基づくことが、現代においてかえって新しさをもたらすのではないだろうか。
これらは、何の脈略もなく古典を現代化するのではなく、地域が有する個別の文化の文脈を理解し、それに即した上で企画化したところに、アカデミックな機関が地域の観光に関与する意義があると思す。温故知新を文字通り実践した作品群を、元絵(一部のみ)とともにじっくりご鑑賞戴きたい。
ねぷた絵
前号の「光明皇后(こうみょうこうごう)」に続く・・・
兇婦鏨(きょうふたがね)
蹄斎北馬画・曲亭馬琴作『石言遺響』(文化2年・1805刊)より
国文学研究資料館蔵
日野良政の妻・万字前が落ちのび、盗賊・隈高業右衛門の妻となった折の名。数々の悪事を働き最後は自害するが、その折、日野俊基に父(塩飽勝重)を殺されたことを明かす。それゆえ、日野俊基の娘・月小夜姫(日野良政のもう一人の妻であり、子をもうけた)に憎悪をたぎらせたという因果が設けられている。
清道禅尼(せいどうぜんに)
蹄斎北馬画・曲亭馬琴作『石言遺響』( 文化2 年・1805刊) より
国文学研究資料館蔵
日野良政の妻・月小夜姫が尼となった姿。後醍醐帝の倒幕計画を果たさずに死んだ日野俊基の娘。亡霊となった父や万字前(鏨)などに翻弄され、苦難の一生を送りながらも、小石姫と香樹丸の二人の子を育てる。本作は『太平記』の世界を背景に、小夜中山伝説、具体的には『小夜中山霊鐘記』(寛延元〈一七四八〉年刊)を下敷きとした物語。
千代囊媛(ちよのうひめ)
蹄斎北馬画・振鷺亭作『千代囊媛七変化物語』(文化5年・1808刊)より
国文学研究資料館蔵
高家の息女。霊夢のお告げにより北山殿の次男・俊季に嫁ぐこととなるが、俊季父子らの謀反により、姫も追われる身となる。その後、懐妊した媛は、俊季のもう一人の妻・荒妙に迫害されるも、守宮の化身が身代わりとなり事なきを得る。夢窓国師の弟子の尼僧・千代能(無着尼)の一代記を、怪奇趣味濃厚に描いた作品
松嶋局(まつしまのつぼね)
蹄斎北馬画・高井蘭山作『星月夜顕晦録』三編(文政4年・1821刊)より
国文学研究資料館蔵
和田義盛の子・朝比奈義秀の恋人。北条義時の次男・朝時がこれに横恋慕し、松嶋を奪うも、その折、義秀に見つけられ、情けをかけられる。これにより、朝時は自首し、勘当を受け鎌倉を離れたが、北条政子がなおも朝時に松嶋を娶そうと策を巡らし、その結果、自害に追い込まれ悲劇的な最期を迎える。実録『鎌倉見聞志』が下敷きとされている作品。
松嶋局(まつしまのつぼね)【遺言の図】
蹄斎北馬画・高井蘭山作『星月夜顕晦録』三編(文政4年・1821刊)より
国文学研究資料館蔵
和田義盛の子・朝比奈義秀の恋人。北条義時の次男・朝時がこれに横恋慕し、松嶋を奪うも、その折、義秀に見つけられ、情けをかけられる。これにより、朝時は自首し、勘当を受け鎌倉を離れたが、北条政子がなおも朝時に松嶋を娶そうと策を巡らし、その結果、自害に追い込まれ悲劇的な最期を迎える。実録『鎌倉見聞志』が下敷きとされている作品。
賤櫛(しずはた)
蹄斎北馬画・高井蘭山作『星月夜顕晦録』三編(文政4年・1821刊)より
国文学研究資料館蔵
局・松嶋に仕える侍女。松嶋と恋人・朝比奈義秀の文使いとなる。やがて運命に翻弄され自害を選んだ松嶋に、死後なお忠節を尽くし、遺言を義秀らに届け、さらに北条政子の悪逆非道を明るみに出すなど奔走する。文政期における北馬は、以前の文化期に比べ画風が変化し、師・北斎の影響から脱しつつある。
環(たまき)
石堂家の家臣・万里野破魔之助保義の妻。
義賊・自来也(三好家浪人・尾形周馬寛行)は蝦蟇の妖術を駆使し、主の仇である石堂家の転覆を謀る。これに対し自来也を罠にかける破魔之助を、妻・環や他の家臣たちが支える。最終的に、破魔之助は石螺貝の霊力により自来也の妖術を封じ、自害に追い込む。演劇をはじめ、多くの後続作を生んだ。
菅根(すがね)
赤松家の臣・明石衛守の娘。
悪臣・熊代喜藤太により明石家は零落、やがて衛守も殺される。残された菅根は弟・孝太郎とともに苦難の日々を送るが、追い詰められた二人はともに自害し果てようとした折、僧・雲水道人(赤松家のかつての陪臣・石野忠兵衛)に救われる。その後、姉弟は周囲の人の助力を受けながら、敵討を果たす。
滝夜叉姫(たきやしゃひめ)
もとは平将門の娘・如月尼。
肉芝仙という蟇仙人から妖術を学び父の復讐を企てる弟・平太郎(良門)を諫めるものの、妖術によって姫も弟と志を同じくしてしまう。最後に自害し、蟇の妖術も解ける。 物語は謡曲『善知鳥』を素材とし、安方夫婦も登場、霊として滝夜叉姉弟に諫言する。外ヶ浜も舞台として描かれている。
佐用媛(さよひめ)
佐用媛は鏡神社のご神体であるが、ここに子宝祈願の末、北条家の家臣ゆかりの家に生まれたのが秋布。実は媛の神霊自ら、前生の因果を滅するとのお告げのもとに生まれた娘であった。佐用媛は『万葉集』などに詠われ、領巾振りの伝説で名高い望夫石の説話で知られる。
阿旬(おしゅん)
歌川豊広画・曲亭馬琴作『旬殿実実記』(文化5年・1808刊)より
国文学研究資料館蔵
呉服屋の娘であったが、大鷲にさらわれたり、猿に養われたり、数奇な運命をたどる。孝女であり、主家の好色な娘・お筍とは好対照をなすが、幾度も交錯する。本作は浄瑠璃『近頃河原達引』の登場人物や猿回しの設定を用いつつ、室町期の武家の世界を舞台に、宝刀詮議なども織り込む。
舞鶴姫(まいづるひめ)
歌川豊広画・曲亭馬琴作『俊寛僧都嶋物語』(文化5、6年・1808、9刊)より
国文学研究資料館蔵
鬼一法眼の娘。法眼の有する虎の巻を目当てに接近する牛若丸と密会する。舞鶴姫は牛若丸に協力し、父も牛若との婚姻を望む。しかし、姫の正体は鶴の前の霊魂の幻影であった。この絵は、鏡に髑髏が映るのを牛若丸が見るという場面。本作では、鬼一法眼の正体は俊寛とされ、読者の意表を突く展開が複数用意されている。
安良子(やすらこ)
歌川豊広画・曲亭馬琴作『俊寛僧都嶋物語』(文化5、6年・1808、9刊)より
国文学研究資料館蔵
門田の案山四郎の娘。俊寛の侍女であり、その郎党・蟻王の妻となり、夫と行動をともにし支える。俊寛の娘・鶴の前を守ろうと、身を挺して敵と戦うが、その折海に沈み命を落とす、馬琴作品屈指の烈女。本作は『平家物語』の俊寛に材をとった作。俊寛の子らの世代のドラマをも複雑に描く。
唐糸(からいと)
歌川国貞画・曲亭馬琴作『女郎花五色石台』初編(弘化4年・1847刊)より
国文学研究資料館蔵
かつて源頼朝を暗殺しようとした咎で処刑された伝説の女性。物語の発端として、鎌倉管領・足利基氏の時代に唐糸を葬った五色塚に怪異が発生、執事・高師冬が塚をあばくと、白気が立ち昇るとともに、五つの光る物が四散する。これがのちの五勇婦が出現する因となる。『八犬伝』の女性版であり、馬琴にとっては『傾城水滸伝』に続き二度目の趣向。
総角(あげまき)
三浦屋全盛の遊女。
侠客の首領・綏綱五郎(白井源八郎)と深い仲になるも、髯黒兵衛にも言い寄られ、妨害を受ける。綱五郎は師を殺し剣を盗んだ山住大九郎を探し求めているが、総角は彼と行動をともにし、苦難にあうも意気地を貫く。実在の遊女をモデルとするが、歌舞伎の助六などの影響を受けて描かれる。作品は侠客たちの争いを主軸とする。
ここからは、前号において迂闊にもさわりのみで素っ飛ばしてしまった重要な箇所をご紹介いたします。
津軽デジタル風土記による ねぷた見送り絵の制作と考察(抜粋)
ねぷた絵師 川村岩山
ねぷた絵の素材として見た際の北斎と歌川派の違い
ねぷた絵の素材として見た場合の北斎や歌川派などの違いは、私見では、「北斎は弘前ねぷた絵が引継ぎ、歌川派は青森ねぶたに立体的に蘇ったのではないか」と考えている。
元絵の挿絵を見送り絵にする場合、両派に共通して挿絵を補正する最も重要なポイントは、七頭身程度の絵にアレンジするということが必要である。
描いた見送り絵をねぷた本体に貼付すると、人は見送り絵を下から見 上げるようになるので、頭があまり小さくならないよう調整しなければならないのである。
私は、北斎と歌川派、両派の決定的な違いは以下の所にあると思っている。
同じ女性の立ち姿の絵で見ると、歌川派の絵は、役者絵や歌舞伎絵が得意なので仕方がないが、横に広がり、直線も多く、構図上三角形を念頭に置いているかのようで、安定感はあるものの、北斎派に比べ動きがかなり鈍くなるような感じがする。
加えて歌川派の絵は、ねぷた絵の決まり事の一つである「手(8)」をなかなか描いてくれないので、北斎が手一つで片付けている動きを出す為に着物の袖のさばき方(描き方)を少しオーバーに表現して動きを表現するという特徴がある。
これは、着物の柄等を重視するので着物部分の面積を大きく描くのではないかと考えている。
さらに見送り絵は、ねぷたの構造上もあって、長方形の縦横の比率が一・五対一と横が縦に比べてかなり短いこと(昔の奉書のサイズの比率、三尺対二尺のなごりが強い)もあって、横に長い絵を好まない物理的な特徴がある。
本稿は個別の絵の評論をする場ではないが、何故歌川派の絵がねぷた見送りになりにくかったのかという私の一考察である。
それでも今回はあえて数種類ではあるが、従来のセオリーに逆らって歌川派の元絵から描き起こしてみたが、横幅が限られているので、どこで着物を切るか考えなければならず、袖絵とのバランスを考えるとやはり難しかったというのが素直な感想である。
一方、もう一つの違いに版木職人の技術的レベルの差があるのではな いかということを考えた。実際今回のプロジェクトを通じて色々な挿絵をみてきたが、描き手によってかなりのレベルの差が見受けられる等、千差万別である。
このように絵師の責任(技量)ももちろんあるのだろうが、挿絵を見る限り、版木職人の技量も作品のできに大きく係わっていたと推察されるのである。
挿絵は、高い印刷技術に支えられ、現在でも通用する芸術性に満ちたものとして発展した。現在我々がねぷた絵の参考にしている、三国志や水滸伝等の挿絵もすべて木版刷りだが、当時の印刷技術がとても高かったことは一目瞭然である。
歌川派の絵は着物の模様(特に植物系の模様が多い)にこだわりがあるようで、模様そのものが細かくどれをとっても高級織の着物のように見えるが、北斎は着物より、女性の体の曲線を上手く表現するのに気を使って描いていたと見受けられる。
着物の模様は一定の法則で表現可能であるが、体の曲線を表現(彫る)する場合は決まった法則がないので手間暇がかかり、より彫り師の熟練度が物を言うと思うのである。そのような観点からも、私は、北斎はこの職人達にかなり恵まれたと思っている。
工夫を凝らした点
「津軽デジタル風土記」は、ねぷた見送り絵の温故知新を目指したも のなので、最終的にはロー(蝋)をつけ染料で彩色して本体骨組みに貼付することを念頭に、あまり突出した色使いにならないようにした。
それでも、本番のねぷたのように限られた色数ではなく、多くの種類の色を使うことができるので、作品間の違いを強調したり、当時の小道具の再現をより現実化・具体化することに努めたほか、本番のねぷた絵の色使いの赤系統と青系統、黄色に少し気を配って彩色したつもりであ る。
石川県能登 大本山總持寺祖院 雲水(左手に鉄鉢)
絵の具は、落ち着きのある色合いの日本画用絵の具「鉄鉢(てっぱち)」を採用した。
鉄鉢は、顔料に膠(にかわ)やでんぷんなどを加えて練り、容器に入れて乾燥させた固形絵の具で、円いお皿に入ったもので、僧侶が托鉢で食物を受け取るのに使う入れ物の鉄鉢(てっぱつ)に形が似ていることから、この名が付いたといわれている(読み方が異なる) 。
ねぷた絵は、後ろから光が当たることを前提の配色にするセオリーがあり、また数少ないねぷた絵の染料の種類から見送り絵等の彩色に決まり事(竹森節堂先生と弟子の長谷川達温先生によるもの)があるので、今回は色紙ゆえ反射光ではあるものの、いずれの作品もその決まりにほぼ忠実に従い彩色した。
・金具は黄色を主に、赤金色、銀色で彩色する。
・ローの代わりに胡粉や青金で墨線を補完し点をほどこす。主な点を挙げると着物裏地は本番のねぷた絵同様に紅梅色にしたほか、黄土色で色具合を調整(阿旬など)する。
・腰巻や下着は紅色よりも落ち着く朱色を使用(長谷川流)する。
持ち物意匠小道具
彼女たちの持ち物は、元絵を尊重した。かんざし、櫛、短刀、長刀などは、三国志の絵を起こすのと異なり、日本古来からの小道具なので想像することを排除し、現物をできる限り調べ描いたつもりである。小物の名称を調べるには、「ひな人形」が結構役立った。
着物の柄
本番の見送り絵の着物の柄( 模様) は、普通ローを使って描くため、墨で描くように細い線で描くことが極めて難しいので、細かい模様をできるだけ排除した。
事実本番のねぷた見送り絵では、「雲」「幾何学的模様」「青海波」「亀甲模様」等決まり切った描き易いものが採用されている。このことを十分に踏まえ、最低限残さなければならない模様を残し、 できるだけ描き進めるのに抵抗の少ない簡易なものを採用するようにし た。
おわりに
今回のプロジェクトで手掛けた絵の制作過程についていえば、津軽の言葉で「かちゃましい」というのがぴったり当てはまる。なかなか思い通りにいかず、細かく面倒で整理し実行するのに紆余曲折する等かなり苦戦を強いられた、ということである。
これは、想像して描くのではな く、素材が明確であるだけにごまかしが一切きかず、絵としてのリアリ ティーが通常のもの以上に要求されるからである。
また、絵柄も直線が多い点など、絵師泣かせの部分も多くあったが、 それでも三〇点の絵を完成できたのは、使命感があったからで、今のうちに、ねぷた絵制作のDNAというか、マインドのようなものを継承し、さらに新しい形で後世に残していかねば自家撞着に陥ってしまう …… 、ややおおげさであるがそのような思いに突き動かされたからである。
さらに、元絵にまで遡ったことによって、残された下絵のおぼろげだった細部がクリアになるというメリットもあったのも事実である。今後もこうした方向でのねぷた絵制作をライフワークとして描き続けたいと考えている。
鏡絵・平清盛勇戦の図(前面)
見送り絵・静御前(後面)
〔注〕
(1)(2)見送り絵・鏡絵…弘前ねぷたは扇ねぷたが主流であり、両面、側面にそれぞれ絵が配される。進行方向である前面は鏡絵と呼ばれ、主として武者などの勇壮な絵が多く、後面は見送り絵と呼ばれる、美人画が描かれることが多い。なお、側面は袖絵と呼ばれる。
(3)竹森節堂…一八九六年~一九七〇年。弘前市出身。弘前の日本画家 八戸鶴静に師事。その後、一九一三年に嶋仙岱に入門し、弘前市内各所のねぷた絵を手掛ける。
一九一九年蔦谷龍岬に大和絵を学び、一九二三年野田九甫の門下となる。一九四四年に弘前に疎開。
戦後、弘前ねぷたを復興し、その様式美を確立した名人の一人。華麗な筆遣いで圧倒的な画力を誇る。
(4)長谷川達温…一九二一年~一九八九年。曹洞宗薬王山正伝寺三十七世住職で、ねぷた絵師。竹森節堂に師事、「ねぷた和尚」の愛称で親しまれた。
一九七五年の棟方志功が描いたねぷた「天の磐戸」の蝋描き、色付けを手掛ける。弘前ねぷたの重要無形文化財指定に尽力。骨太な作風は今に至るまで弘前で親しまれ続けている。
(5)ねぷた喧嘩…「弘前藩庁日記(国日記)」に享保十三年(1728)
を筆頭に毎年ねぷたの喧嘩や取締りがあったことが記録されている。石を投げあう、木刀で乱闘、時には真剣でやり合うため、けが人は当たり前で、時には死者が出ることも珍しくないねぷた喧嘩は、表向き昭和八年(最後の大きな喧嘩さわぎ)まで続いた。
それでも、ねぷた喧嘩の気概のようなものは現在でも脈々と伝わってい
る。
筆者が中学三年(1970)の時に町内の子供会でねぷたを出したが、町内会の喧嘩経験者の老人達は、私達子供にねぷた運行では絶対に道を譲るな(すれ違う場合の掟?)、ねぷたの肩(側面)
には「石打無用」と書け、見送り絵は生首にしろ、袖絵は枯れススキにしろ等など勇ましいことを平気で言っていたのが記憶にある。
ねぷた喧嘩に繰り出すねぷた本体は小ぶりで、ねぷたの形を決める「ため(R)」が現在に比べて、小山のようにとんがっていた(最近のねぷたの形は、節堂ねぷたといい、竹森節堂自身が絵を描き易くするために形を現代風にしたものといわれている)。
最近ねぷた本体ではなく、前ねぷたといわれる小さいねぷたにこの形のものが出てくるようになった。この見送り絵には生首を描く等往年を思わせるものが多くみられる。
(6)長谷川壽一…(1949〜2014)。薬王山正伝寺三十八世の住職で、ねぷた絵師。父長谷川達温に師事、「二世ねぷた和尚」となる。豪放磊落な父の絵に対し繊細で細やかな絵を好んだ。父の弟子への指導も懇切丁寧で信望が厚かった。
永年にわたり地道にコレクションした美術品と父の作品展示、公開のために妻の実家森山家にギャラリー森山を建設開業(2014 )年 。
(7)鬼人のお松…歌舞伎・読本などで石川五右衛門、自来也と並び、
「日本三大盗賊」とされる女盗賊。
十和田湖奥入瀬渓流の入り口
(現在の奥入瀬渓流唯一の売店石ケ戸休憩所)の川岸に地名の由来となった「石ヶ戸」と呼ばれる、厚さ一m余、長さ十m程の桂の木に支えられた大きな一枚岩がある。
お松については全国各地に言い伝えがあるが、津軽のお松伝説は、お松はここ石ケ戸を住処に男がくると川を渡りたいと声をかけ、男の背にのると短刀で男を刺し金品を奪う方法で四十八人を殺したが、四十九人目の仙台藩の若者に見破られ成敗されるというものである。なお、「石ヶ戸」とは、石
でできた小屋という意味がある。
(8)津軽の伝統的な絵にはねぷた絵の他に津軽凧絵がある。津軽凧絵は手を描くことが少なく、凧絵と区別する為に、長谷川流に限らず、どんなに狭いスペースでもできるだけ絵の中に手を描くことをねぷた絵のセオリーとしている。
「津軽デジタル風土記の構築」プロジェクト概要
弘前大学教職大学院教授 瀧本壽史
本プロジェクトの趣旨と取り組み姿勢
「津軽デジタル風土記の構築」プロジェクトは、大学共同利用機関法人人間文化研究機構国文学研究資料館(以下、国文研と略記)が推進す る「文献観光資源学」の中の柱の一つであり、全国に先駆けたモデル ケースとして位置づけられているものである。
覚書締結式(2017年7月15日)
共同研究であり、国文研
と弘前大学教育学部、弘前大学人文社会科学部、及び津軽地方の公的資料所蔵機関である弘前市教育委員会(弘前市立弘前図書館〈以下弘前図
書館と略記〉・弘前市立博物館)、青森県立郷土館の五者が覚書を締結してその推進を図っている。
共同研究期間は平成二十九年度(2017年度)から令和元年度(2019年度)までの三年間である。
初年度は、平成二十九年七月十五日(土)に弘前大学創立50周年記念会館みちのくホールにおいて、文献観光資源学「津軽デジタル風土記の構築」プロジェクト推進に関する覚書の締結記念講演会「津軽の魅力と文化を世界に発信!ー古典籍・歴史資料のデジタル公開に向けてー」を
開催しプロジェクトのスタートとした。
締結式の後、弘前大学名誉教授
長谷川成一氏、国文研館長ロバートキャンベル氏による記念講演会を
行った。最終年度の今年度は、本資料集の刊行後になるが、同じ会場に
おいて、文献観光資源学「津軽デジタル風土記の構築」プロジェクト成果報告会「津軽の魅力と文化を世界に発信!―古典籍・歴史資料のデジ
タル化と未来―」を開催することとし、三年間の成果報告を行うとともに、「古典籍・歴史資料のデジタル化と未来」をテーマに、ロバート
ャンベル館長の講演とフォーラムを実施し、三年間にわたる本プロジェクトのまとめとし今後の展望、デジタル化の未来について考えることとしている。
三年間の活動等については本資料集に詳しく記載しているところであ
るが、本プロジェクト推進に当たっての基本理念と基本姿勢を次のように考え、取り組んできた。
本プロジェクトは、本書「活動報告編」で木越俊介氏が記しているよ
うに、従来紙媒体で限られていた場所(研究機関・博物館・大学等)に
集中していた地域資料、すなわち古典籍や古文書・絵図などの歴史資料、さらには固定的な碑文などもデジタル化しアクセスを容易にするとともに、紙媒体と併用することによって再資源化していこうというものである。
つまり、津軽地域の歴史的資料の画像と情報をデジタル空間において体系的に連結し、新たな津軽の地域的価値、魅力を創造し、発信
していこうとするものであり、具体的には、今回、本プロジェクト推進に関する覚書を締結した各機関がそれぞれ所蔵する資料とこれまで培ってきた実績を合わせることで、新たなデジタル環境の構築、そしてそれ
を地域の資源として生かしていくという未来志向のプロジェクトである。
これが本プロジェクトの基本的な理念であるが、加えて、地域の価値を再発見していくためのユーザー参加型ツールを構築しながら、現代の視点から地域情報を再統合していくことも、本プロジェクト推進に当たっての基本姿勢としている。
ユーザーの参加、広くは市民の参加は本
プロジェクトの幅も奥行きもさらに広げ充実したものとしてくれる可能性が大きい。個人所蔵の資料の活用や、新たな資料の発見、多くの人々の多様で多彩な観点から導かれる津軽の魅力と文化の発見と発信、さら
には観光資源としての活用は地域創造にも繋がっていく。
本プロジェク
トが資料の収集とそのデジタル化にとどまらず、積極的に市民の中に入
り込み、また教育活動に取り組もうとしたのはこのような考え方からで
ある。木越俊介氏が本プロジェクトの中間報告会(国文研主催「第四回
日本語の歴史的典籍国際集会」平成三十年七月二十七日)において、本
プロジェクトの全体像を「ナビゲーションからコミュニケーションへ」
として表現したのはまさにこのことによる。
詳しくは、本書「ねぷた編」「活動報告編」「教育活動編」をご覧いただきたい。小学生から高齢者の方々まで、そして津軽地域全域にわたって、本プロジェクトが関わってきたことを知っていただけるのではないだろうか。
そして、本プロ
ジェクトのさらなる可能性、未来が開けてくるだろうということにも、
思いをはせていただけるのではないかと思っている。本プロジェクト終
了に当たって開催する成果報告会における講演とフォーラムのテーマを
「古典籍・歴史資料のデジタル化と未来」としたのもそのためである。
お問合わせ
弘前大学 瀧本壽史
MAIL:htakimoto@hirosaki-u.ac.jp
編集後記に代えて
当Webサイトにおける「津軽デジタル風土記」につきましては、ひとまず本号にて完結となります。沢山の貴重な資料をご提供戴いたにも拘わらず、一つのテーマをご紹介するのがやっとのことでした。
読者の皆様におかれましては、かなりの長文となり、さぞかしお疲れのことと存じます。
編集担当としては力不足で残念でなりませんが、「津軽デジタル風土記の構築」プロジェクトの成果が、古典籍・歴史資料デジタル化の未来への魁となられ、益々ご発展される事を願っております。ご協力ありがとうございました。
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
祭り、神社、工芸等関連情報のリンク記事、下記よりご覧ください。
ZIPANG TOKIO 2020「高さ5メートル、重さ60キロの張子人形(万燈)を一人で担ぐ『天下の奇祭!』刈谷万燈祭(かりやまんどまつり)29日~ いよいよ開幕」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2689280/
ZIPANG TOKIO 2020「ユネスコ無形文化遺産『新庄の夏は新庄まつりでフィナーレを迎える』日本が世界に誇る山・鉾・屋台行事(特別編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2831179/
ZIPANG TOKIO 2020「印と鬼・楼車 上野天神祭のダンジリ行事 『ユネスコ無形文化遺産登録』10月に忍者の里 伊賀市で開催」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3014307/
ZIPANG TOKIO 2020「ユネスコ無形文化遺産 城端曳山祭 五月(さつき)にあらわす神々しき優美」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2302048/
ZIPANG TOKIO 2020「国宝・犬山城の麓に鎮座する針綱神社の祭礼『ユネスコ無形文化遺産 犬山祭』4月1日~2日間開催」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2160586/
ZIPANG-2 TOKIO 2020 大向うから~待ってました~ 「二年に一度の『とちぎ秋まつり2018』」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4560050
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~ 南部一之宮 櫛引八幡宮 ~「本日から25日まで、櫛引八幡宮秋季例大祭が執り行われます。(その1)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4921083/
ZIPANG-2 TOKIO 2020「櫛引八幡宮の国宝と本殿の彫刻に匠の技を見る!(その2)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4926609/
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~ 「櫛引八幡宮の建築のご紹介と昔話(その3)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4931072/
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~ 「櫛引八幡宮の建築のご紹介と流鏑馬について(その4)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4936982/
ZIPANG-2 TOKIO 2020「南部一之宮・櫛引八幡宮の国宝~建築と工芸~(その5)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4942462/
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~「日本の伝統と文化を継承(最終話)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4947411/
ZIPANG-4 TOKIO 2020 全国の姥神像行脚(その15)青森県の下北半島の果て 霊山・恐山の「姥神」・・・【寄稿文】廣谷知行
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7830580/
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~古代からの架け橋~日本遺産認定「国境の島 壱岐・対馬・五島」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4615487/
ZIPANG TOKIO 2020「南砺市 香り高い8つの伝統と文化で、訪れる人々をお出迎え『世界遺産 五箇山合掌造り集落』編」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2295541/
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
国立大学法人 弘前大学
〒036-8560 青森県弘前市文京町一番地 電話:0172-36-2111(大代表)
国文学研究資料館
〒190-0014 東京都立川市緑町10-3(Google Map) 電話:050-5533-2900 (IP電話 代表)
公益社団法人 青森県観光連盟 〒030-0803 青森市安方1-1-40 電話:017-722-5080
公益社団法人 弘前観光コンベンション協会
〒036-8588 青森県弘前市大字下白銀町2-1 弘前市立観光館内 電話:0172-35-3131
一般社団法人東北観光推進機構
〒980-0811 仙台市青葉区一番町2-2-13 仙建ビル8階 電話:022-721-1291
大本山總持寺祖院 〒927-2156 石川県輪島市門前町門前1-18-1 電話: 0768-42-0005
公益社団法人石川県観光連盟
〒920-8580 石川県金沢市鞍月1丁目1番地 電話:076-201-8110
石川県名古屋観光物産案内所
〒460-0008 愛知県名古屋市中区栄4丁目16番36号 久屋中日ビル3階 電話:052-261-6067
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話:(代表)03(5253)4111
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