ZIPANG-5 TOKIO 2020 古今折衷 津軽デジタル風土記 ー ねぷたまつりと北斎 ー その邂逅への経緯 (二)



弘前市の市章「卍(まんじ)」


卍(まんじ)は、藩政時代に津軽氏の旗印として用いられた由緒あるもので、功徳・円満の意味で、吉祥万徳の相を表すといわれ、明治33年6月から旧弘前市の市章として用いられてきました。


葛飾北斎翁のお墓がある「誓教寺」境内に建立されている葛飾北斎像


北斎の晩年期の画号もまた、卍[まんじ]なのである・・・


「津軽デジタル風土記」
ねぷた見送り絵プロジェクト

国文学研究資料館研究部 木越俊介


弘前のねぷた絵の素材が、多く江戸時代後期の絵本類、特に葛飾北斎らの画にもとづくことはよく知ら れているところであり、その第一人者であった竹森節堂(一八六九~一九七〇)以来、とりわけ北斎やその弟子が描く水滸伝や伝奇小説の挿絵が多く使用されてきた。


長谷川達温(一九二一~一九八九)も、やはり江戸時代の小説挿絵から着想を得ていることが、 残された作品や下絵の分析から明らかになっている。


今回のプロジェクトは、そのようなねぷた絵作成プロセスのDNAを継承し、新たな見送り絵を令和の世に提案することが出発点にある。ここに掲載するねぷた見送り絵30点は、全て川村岩山氏の手により、江戸時代の読本(よみほん)と呼ばれる伝奇小説に描かれた女性たちを、デジタル画像から描き起こしたものである。


ねぷた絵の原点に返り古典的な素材に基づくことが、現代においてかえって新しさをもたらすのでは ないだろうか。何の脈略もなく古典を現代化するのではなく、地域が有する個別の文化の文脈を理解し、それに即した上で企画化したところに、アカデミックな機関が地域の観光に関与する意義があると思われる。


温故知新を文字通り実践した作品群を、元絵(一部のみ)とともにご堪能いただきたい。



津軽デジタル風土記による
ねぷた見送り絵の制作と考察

ねぷた絵師 川村岩山




(一)制作までの経緯


津軽デジタル風土記のプロジェクトに加えて頂いた私の担当部分は、 江戸時代の読本の挿絵に登場する女性達を、ねぷた絵の手法を用いて見送り絵として現代に蘇らせるというものである。


当初の打ち合わせ段階では、武者絵を考えていたが、華やかさと後述するねぷたの見送り絵の現状、さらに袖絵との組合せなどを色々勘案し、女性像に落ち着いたものである。


私がこのプロジェクトに取組んだ最大の理由は、以下のような現状認識に基づいたからである。従来からあった「三国志」や「水滸伝」を題材とする見送り絵はほぼ描き尽くされていて、近年は仏画や単なる花魁等を題材とするなど、鏡絵との組合せ上、題材としてギャップを感じさせる見送り絵が多くなっている。


太平洋戦争後、ねぷた祭が復活した頃(昭和二十年代後半から三十年代)は、日本の題材を使用した見送り絵が多く存在したものである。こ の頃を見習い、ねぷた見送り絵の確かな画題の「絵」を補充しなけれ ば、早晩底をつくと考えていた危機感がこのプロジェクトに取組んだ最大の理由である。


昔の私もそうであったが、若いねぷた絵師が一番欲しているものは、なんといってもねぷた絵の下絵とその下絵を作るための「元絵」であ る。


日本には読本の登場人物像や歌舞伎の役者絵、武者絵など、ねぷた絵の題材として相応しいものが沢山存在している。これらを積極的に取り込んでいくことで、ねぷた絵に幅を持たせようとしたのが、現代ねぷた絵の先駆けの竹森節堂先生や長谷川達温先生であった。


私がデジタル風土記のプロジェクトに参加するにあたって、自分なりに留意したことは、簡単にまとめると以下のとおりである。


(1)三国志・水滸伝・漢楚軍談以外で、ねぷた絵見送り絵に相応しい元絵を探し下絵化すること。良く知られた伝奇ものや歴史上の人物・伝承などから、諸先輩が築 いたねぷた絵の流れ(動き等が感じられる絵)から逸脱しない元絵を探し、見送り絵として展開しやすいように整えること。 


(2)元絵をどのように彩色し見送り絵にするのか考えて取組むこと。読本挿絵はモノクロの世界である。ねぷた染料の色数は、わずか 十一色(赤・黄・橙・青・紺・緑・緑黄口・紫・桃・茶・黒)、墨を 加えても十二色しかないので、その組合せも考えながら彩色したつもりである。


(3)様々な資料から下絵を作るので、下絵のサイズを統一して後の展開を 容易にすること。今回はすべて八号サイズに統一した。


(4)元絵の出典を明らかにして、誰が見ても聞いてもその絵が何かしっか りわかるようにすること。


少し前までは絵師自身が場面の説明などを受け持っていたが、皆が スマートフォン等インターネット接続機器を持ち歩き、どんな情報でもすぐにアクセスし調べることができる今の世の中では、しかるべき出典等などが明示されていると幅が広がると考えた。


(5)紙ベースから順次デジタル化し、広くねぷた絵師を志す若い人に 使ってもらえるようにすること。 ねぷた絵の世界も確実にアナログからデジタルへ変化しているので、乗り遅れることないようにするということである。


なお、今回作成した作品三十点の一覧は別項目を参照いただくことに して、そのうち、新作(すなわち、これまで実際のねぷたに見送り絵として描かれたことがないと思われるものや下絵も残されていないものを除いたもの)は、以下の十八点である。


阿旬(おしゅん)『旬殿実実記』
花児(はなこ) 『小栗外伝』二編
環(たまき)    『自来也説話』後編
韓衣(からぎぬ)『国字鵺物語』
光明皇后           『絵本三国妖婦伝』下編
狭高(さたか) 『阥阦妹背山』
佐用媛(さよひめ) 『松浦佐用媛石魂録』
松嶋局              『星月夜顕晦録』三編
松嶋局(遺言の図) 『星月夜顕晦録』三編
菅根(すがね) 『孝子嫩物語』
千代曩媛(ちよのうひめ) 『千代曩媛七変化物語』
総角(あげまき)『東男奇遇糸筋』
貞児(さだこ)    『絵本璧落穂』
白糸姫             『小栗外伝』三編
舞鶴姫             『俊寛僧都嶋物語』
妖女菖蒲(あやめ) 『国字鵺物語』
妖婦梢             『山桝太夫栄枯物語』
葎戸(むぐらど)『頼豪阿闍梨恠鼠伝』   


この後の(二)、(三)についてのご紹介は、本号においては残念ながらさわりのみとなります…


(二)過去のねぷた絵と長谷川達温先生の下絵・元絵の考察



先述のとおり、太平洋戦争後、ねぷた祭が復活した時(昭和二十年代 から三十年代)は、日本の題材を使用した見送り絵が多く存在した。


わが師長谷川先生は、ねぷた絵の参考となる読本を集める為、仕事の 合間をみて、東京神田神保町の古本屋街まで足を延ばし買い求めたそうである(先生談)。


当時はインターネットが全くない時代だったため、 少ない流通の読本を手に入れるのは並大抵のことではなかったと聞いて いる。


(三)ねぷた絵の素材として見た際の北斎と歌川派の違い


弘前ねぷた


青森ねぶた


ねぷた絵の素材として見た場合の北斎や歌川派などの違いは、私見では、「北斎は弘前ねぷた絵が引継ぎ、歌川派は青森ねぶたに立体的に 蘇ったのではないか」と考えている。 


ねぷた絵

津軽デジタル風土記

ねぷた見送り絵プロジェクト


弘前のねぷた絵の素材が多く、江戸時代後期の絵本類、特に葛飾北斎らの画にもとづくことはよく知られているところであり、その第一人者であった竹森節堂(一八九六年〜一九七〇年)以来、とりわけ北斎やその弟子が描く水滸伝や伝奇小説の挿絵が多く使用されてきました。


長谷川達温(一九二一〜一九八九)も、やはり江戸時代の小説挿絵から着想を得ていることが、残された作品や下絵の分析から明らかになっています。


今回のプロジェクトは、そのようなねぷた絵作成プロセスのDNAを継承し、新たな見送り絵を令和の世に提案することが出発点にあります。


ここに掲載するねぷた見送り絵三〇点は、全て川村岩山氏の手により、江戸時代の読本(よみほん)と呼ばれる伝奇小説に描かれた女性たちを、デジタル画像から描き起こしたものです。


ねぷた絵の原点に返り古典的な素材に基づくことが、現代においてかえって新しさをもたらすのではないでしょうか。


何の脈略もなく古典を現代化するのではなく、地域が有する個別の文化の文脈を理解し、それに即した上で企画化したところに、アカデミックな機関が地域の観光に関与する意義があると思います。温故知新を文字通り実践した作品群を、元絵(一部のみ)とともにご堪能ください。


笠屋三勝(かさやさんかつ)


葛飾北斎画・曲亭馬琴作『三七全伝南柯夢』(文化5年・1808刊)より
国文学研究資料館蔵

京都の舞々で名高い、作中のヒロイン。楠の家臣の家に生まれた赤根半七とともに数奇な運命をたどる。浄瑠璃『艶容女舞衣』などで有名な三勝半七の情話が、勧善懲悪の伝奇世界に移しかえられている。


葎戸(むぐらど)


葛飾北斎画・曲亭馬琴作『頼豪阿闍梨恠鼠伝』(文化5年・1808刊)より
国文学研究資料館蔵

後白河上皇の義仲への勅命を伝える役であったが、かえって嘲弄され自害した猫間光隆卿の家臣・竹川正忠の妻。偶然が重なり、頼朝方の家臣・秩父重忠の子・重稚の乳母として奉公する。後に夫と子に再会するも、目の前で実の子・千江松を殺される。結果的にこの悲劇が、鼠の妖術をもつ義高を破る契機となる。


野上花子(のがみはなこ)


葛飾北斎画・曲亭馬琴作『墨田川梅柳新書』( 文化4 年・1807刊)より
国文学研究資料館蔵

平行盛の遺子であったが、後鳥羽院の臣・吉田惟房に迎えられ班女御前となり、やがて梅稚が生まれる。本作は、能「隅田川」などで知られる梅若伝説を下敷きに、源平合戦後の時代を背景とし、緻密な人物関係に加え、多くの見せ場を設けた馬琴の代表作の一つ。


薄雪姫(うすゆきひめ)


葛飾北斎画・曲亭馬琴作『標注園の雪』( 文化4年・1807刊)より
国文学研究資料館蔵

小野秋光と玉の方の娘・虚子の通称。清水寺にて園部頼胤に見初められ、後に偶然再会し夫婦となる。姫の前世は小野小町、頼胤は深草少将であり、その悪報が二人を苦しめ、姫は誘拐され、人から人へと売り買いされるなど、苦難の渦中を歩む。薄雪夫婦の名は江戸時代初期の小説『薄雪物語』に因む。後編が予定されるも未完に終わった作品。


寧王女(ねいわんにょ)


葛飾北斎画・曲亭馬琴作『椿説弓張月』(文化4~8年・1807~11刊)より
国文学研究資料館蔵

琉球王・尚寧王の王女。主人公・源為朝と出会ったことにより、失われた王位継承のしるしの珠を再び手にするが、その後、妖僧曚雲に激しく追われる。物語途中からは、為朝の亡き妻・白縫が憑依、為朝と行動をともにし、曚雲討伐を果たす。


大姫(おおひめ)


葛飾北斎画・曲亭馬琴作『頼豪阿闍梨恠鼠伝』(文化5年・1808刊)より
国文学研究資料館蔵

源頼朝の娘。木曽義仲の嫡男・美妙水冠者義高に娶せられるはずが、頼朝が義仲を滅ぼしたため、複雑な立場に立たされる。父の義高暗殺計画を知った大姫は、幽閉されている義高を密かに逃がす。やがて義高と再会、婚姻を果たすも、父への復讐と誓う夫への貞と父への孝との間で板挟みになり、自害する。


藤浪(ふじなみ)


葛飾北斎画・小枝繁作『小栗外伝』初編(文化10年・1813刊)より
国文学研究資料館蔵

小栗満重の後妻。もと乳母であったが、正室の死を機に側室に成り上がる。満重との子・万千代を重んじ、先妻の子・小次郎(のちの助重)を退け、策略にはめるなどする。小栗家離散の際に子と落ちのび、その先で照天姫から金を強奪しようとするが、誤って子をあやめてしまう。さらに姫を折檻するが、これを知った藤浪の後夫・後藤小介に殺される。


花児(はなこ)


葛飾北斎画・小枝繁作『小栗外伝』二編(文化11年・1814刊)より
国文学研究資料館蔵

青墓の宿屋主人・万長の娘。自分を救った小栗助重に思いを寄せるが、万長の家に招かれた助重は、人買のために婢女・小萩として働いていた妻・照天姫と再会。花児は嫉妬にかられながら、なおも助重に言い寄る。その後姫は賊にさらわれ、万長は強引に花児を助重に娶すが、それでも姫を選んだ助重に、花児は狂乱死し、霊となって二人を悩ます。


白糸姫(しらいとひめ)


葛飾北斎画・小枝繁作『小栗外伝』三編(文化12年・1815刊)より
国文学研究資料館蔵

善政を施す城主・結城持朝の娘。妖魔に拐かされた娘を救おうと手を尽くす持朝は、怪僧・申陽の仕業と知り倒そうとするものの叶わず、折しも小栗夫婦を支えようと藤沢からやってきていた常阿上人に助力を乞う。先に怪僧の正体が長寿の猿の化けた玃かくと見破り退けていた上人は持朝に秘術を与え、小栗の勇士の助力もあり、退治と救出に成功する。


貞児(さだこ)


下総の名医・恵仲の娘。
父が新田義興の遺児・徳寿丸の師となったことから、数奇な運命をたどる。冤罪を受け金策に迫られた父のために遊里に身を売ろうとし、その孝を認められ、村長の娘の侍女となる。やがて、悪瘡を発した徳寿丸の妻となり、必死に看病し快方に導く。その後も、足利方に復讐を期す徳寿丸を妻として支え続ける芯の強さを持つ。


幼女菖蒲(あやめ)


伊勢の弓売翁に拾われた謎の捨て子。鳥羽上皇の寵愛を受けるも、鵺退治を果たした源頼政が思い焦がれ、結ばれる。やがて、平家全盛の世にあって、菖蒲に平家を倒すよう吹き込まれた頼政は挙兵するも敗北して死ぬ。その正体は、不遇のうちに殺された韓衣の亡霊であり、代々の天皇の早世など全て自らの業であると明かし、咽をついて自害する。


韓衣(からぎぬ)


玉環・此君とともに、鳥羽上皇に献じられた三美女の一。上皇の三人への寵愛を妬んだ美福門院によって、寵愛の度を競わされ、結果、韓衣が懐妊しこれに勝つ。さらに計略はつづき、結局三人とも濡れ衣の罪を着せられ殺されてしまう。やがて霊となった三人は、実は自分たちが姉妹であったことを知り、復讐を誓い、鵺となって上皇らを苦しめる。


妖婦梢(こずえ) 


岩城山に住む謎の妖女。主の岩木正氏の転覆を謀る佞臣・村岡玄蕃が目を付け、側室としてあてがい、主を堕落させる。その正体は、かつて岩城山で正氏に同族を多く殺された白狐の化身であった。復讐のために正氏に接近したが、正氏との間に子を宿してしまい、その恩愛との間に苦しみ、最終的には子と別れ自身は遠国へと去るという悲哀を帯びる。


狭高(さたか)


太宰少弐喜頼の妾であり、彼の娘・橘姫の乳母。蘇我入鹿の悪霊により魔に落ちた芳野宮により、危機に陥ったお家のために奔走する。その中で、娘・雛鳥を人質として差し出すことを迫られるが、その折、実は石見雅助の息子・古雅輔と入替え、しかも性別も逆に育てていたことが明かされる。浄瑠璃『妹背山婦女庭訓』を大胆にアレンジした作品。


光明皇后(こうみょうこうごう)


蹄斎北馬画・高井蘭山作『絵本三国妖婦伝』下編(文化元年・1804刊)より
国文学研究資料館蔵

聖武天皇の皇后。父は藤原不比等、母は橘三千代。本作には登場人物としてではなく、妖婦・玉藻前が、自らの体が光ったことを故事を引いて弁明する中に出てくる。そこでは「御身より光を給ふゆへ光明の二字を授けさせられ光明皇后とは称し給ふ」とされる。作品自体は、殺生石の伝説に基づき、金毛九尾の狐が三国に渡り悪事を働くさまを描く。


本号では、見送り絵三〇点の内十五点をご紹介いたしました。残りの十五点は次回といたします・・・


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下町、墨田区が生んだ世界的絵師 「葛飾北斎」


 古今折衷の建築「すみだ北斎美術館」(左)と満開の桜


北斎通りに面して建つ「東あられ両国本店」お店前には葛飾北斎生誕地の表示板が・・・
外国の人たちにも、冨嶽三十六景が描かれた名物「北斎あられ」が評判!


墨田区は長い歴史をもち、東京23区のなかでも、特に古い行事や伝統技術を残している区のひとつです。こうした歴史を誇る「すみだ」は、政治家、思想家、宗教家、文筆家や芸術家など、さまざまな活躍をした偉人を多数輩出しています。


浮世絵師の葛飾北斎(1760年~1849年)も、そうした偉人のひとりですが、その魅力的な生涯や、およそ70年にもわたって描き続けられた多彩な作品は、没後約160年経た今日、ますます高い評価を得て、世界の偉大な芸術家として広く注目されています。


実は、この北斎は墨田区に生まれ、その90年にも及ぶ長い生涯のうち、90回以上も引越しをしたといわれますが、そのほとんどを「すみだ」で過ごしながら、多くの名作を残しました。作品の中には、両国橋や三囲神社、牛嶋神社など、当時の「すみだ」の景色を描いたものが数多くあります。


なお、葛飾北斎の「葛飾」は、出生地である「すみだ」を含む地域が、武蔵国葛飾郡であったことから名乗ったといわれます。


北斎の生涯  

冨嶽三十六景 山下白雨


絵師以前

宝暦10年(1760年)から安永6年(1777年)まで 1歳から18歳まで・・・
(年齢表記はすべて数え年を使用。)


北斎は本所割下水付近で生まれ、幼名は時太郎[ときたろう]のちに鉄蔵[てつぞう]といったといわれています。父親は川村氏としかわからず、幕府の御用鏡師である中島伊勢の養子となったとされています。


6歳から絵を描くことに興味を覚え、12歳頃には貸本屋で働いたとされ、14歳頃には版木彫りの仕事をしていましたが、絵を描きたかった北斎は、浮世絵師勝川春章への弟子入りを決意します。


習作の時代

安永7年(1778年)から寛政6年(1794年)まで・・・
(19歳から35歳まで。)


安永7年(1778年)に勝川春章[かつかわしゅんしょう]に入門し、勝川春朗[しゅんろう]の画号で浮世絵の世界に登場してから、寛政6年(1794年)に勝川派を離脱するまでの時代。


この時代は、勝川派の絵師として、春章の様式に倣った役者絵や黄表[きびょうし]の挿絵などを描いていましたが、子供絵、おもちゃ絵、武者絵、名所絵、角力[すもう]絵、宗教画など幅広い題材の作品も発表しています。


なお、肉筆画は少なく、現在確認できるものとして、「鍾軌[しょうき]図」や「婦女風俗[ふじょふうぞく]図」などが遺っているのみです。


宗理様式の時代

寛政6年(1794年)から文化元年(1804年)まで・・・
(35歳から45歳まで)


 勝川派を去った北斎は、寛政6年(1794年)新しく宗理[そうり]の画号を用いました。宗理は俵屋宗達らによって開かれた琳派の頭領が使用した画号です。


北斎は、それまでの琳派とも異なる独自の宗理様式を完成させ、狂歌の世界と深く関わり、たくさんの摺物や狂歌絵本の挿絵を描いています。


寛政10年(1798年)には、北斎辰政[ときまさ]を名乗って琳派からも独立し、どの流派にも属さないことを宣言しています。


作風から享和4年(1804年)頃までが、宗理様式の時代と呼ばれています。


 読本挿絵と肉筆画の時代

文化元年(1804年)から文化8年(1811年)まで・・・
(45歳から52歳まで) 


文化年間(1804年から1818年まで)に入ると、北斎は読本挿絵の制作を精力的に行います。読本挿絵には、基本的に墨色のみでわずかに薄墨が使われることがあります。


北斎は墨の濃淡を利用した奥行のある空間表現、奇抜な構図などで読本挿絵の芸術性を飛躍的に高めました。また、陰影表現が特徴的な洋風風景版画も制作しました。


肉筆画も多く遺し、最も多作な最晩年に次ぐ制作数があります。
現在おなじみの「葛飾北斎」や「戴斗[たいと]」の画号が登場するのもこの時期です。


絵手本の時代

文化9年(1812年)から文政12年(1829年)まで・・・
(53歳から70歳まで)


この時期には門人が増え、北斎の絵を学ぶ人は全国にいたため、北斎は絵手本の制作に情熱を注ぎました。現在、「ホクサイ・スケッチ」の名で世界的に有名な『北斎漫画』の制作もこの時期に始められました。


北斎の絵手本は、眺めるだけでも楽しく、工芸品の図案集としても使われました。絵手本以外では、文政年間(1818年から1830年まで)に錦絵の鳥瞰図があり、「為一[いいつ]」の号を使い始めた文政3年から5年までにかけては摺物の制作が増えました。


錦絵の時代

冨嶽三十六景 凱風快晴

天保元年(1830年)から天保4年(1833年)まで・・・
(71歳から74歳まで)


この時期には「冨嶽三十六景」などの風景版画や花鳥画など、現在も有名な錦絵の名作が多数生み出されました。


従来、浮世絵には現在風景画と称されているジャンルはなく、「冨嶽三十六景」の大流行により、浮世絵に風景画を確立したのは、北斎の偉大な業績の一つです。


絵手本の時代には、洋風表現を大胆に使用した作例もありましたが、この時代にはより洗練した方法で洋風表現を使い、中国の南蘋[なんぴん]派の表現も取り入れています。


晩年期

肉筆画の時代 天保5年(1834年)から嘉永2年(1849年)まで・・・
(75歳から90歳まで)


天保5年(1834年)刊行の『富嶽百景』の中で北斎は、百数十歳まで努力すれば生きているような絵が描けるだろうと記しました。


この時期の北斎は、卍[まんじ]の画号を用い始めたほか肉筆画に傾倒し、題材も風俗画から和漢の故事に則した作品や宗教画等へと大きく変化する一方、絵を描く人々のために作画技法や絵の具の調合法を記した絵手本等も刊行しています。


嘉永2年(1849年)春、病を得た北斎は真の絵師となることを切望していましたが、ついに90年の生涯を終えました。




誓教寺に建てられている葛飾北斎翁の墓石には「卍」の画号が刻まれている・・・


弘前大学ねぷた

今年もねぷたの季節がやってきます。
弘前大学のねぷたは、大学と地域住民との交流を図ることを目的とし、昭和39年に「弘前ねぷたまつり」へ初参加して以来、市民から『大学のねぷた』として親しまれています。
2013年の夏のこと、連続50年の出陣でした。

鏡絵:水滸伝 一丈青奮戦の図

見送り絵:一丈青

2013年8月1日


【津軽デジタル風土記資料集】

2017年度から2019年度の3年をかけて、弘前大学と国文学研究資料館が共同で津軽の古典籍・歴史資料のデジタル化を推進してきました。「津軽デジタル風土記の構築」プロジェクトの成果をご覧ください。


お問合せ先

弘前大学 瀧本壽史

MAIL:htakimoto@hirosaki-u.ac.jp


次回に続く・・・



編集後記

さて
弘前ねぷたが北斎派ならば、青森ねぶたでは歌川派か?と…後が続いており、折角、盛り上がった処で自ら水を差す格好となりました。


日頃の目分量で "さわり"ならば本日で一気に仕上るぞ!と目論んだものが、 "さわり" だけでもご紹介できれば…と軽はずみな口を叩いたのが間違いのもと。


これ程、各分野のエキスパートの方々が熱く取り組んで来られことを思えば…当然と申せば当然のこと……
とんでもなく道は程遠いものとなり…翌日?翌々日?次号回しと相成りました。

\(°o°)/

編集長の軽卒癖がここに至ってもろに出ちゃいましたね〜。長文お許しあれ !! m(_ _)m 



「弘前ねぷた」「青森ねぶた」まつり、関連リンク記事のご紹介!


ZIPANG TOKIO 2020「【 弘前ねぷたまつり 】 ねぷた囃子が、ねぷたに魂を与え、津軽人の血を奮い立たせる」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2606156 


ZIPANG TOKIO 2020「国重要無形民俗文化財 青森ねぶた祭がもうすぐ始まる! 青森ねぶた祭の特色の一つ『はねと』の大乱舞をご覧ください!」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2619420/


ZIPANG TOKIO 2020「画像で綴る 青森ねぶた祭(続編)ラッセラー『 出せ、出せ、ろうそく出せ、出さねばかっちゃくぞ!』」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2628383/


ZIPANG-2 TOKIO 2020  ~ 石州瓦物語(その9)~「石州瓦と北前船 日本海側が『表日本』の時代が再び、きっとやってくる‼」

https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5458237/


ZIPANG-4 TOKIO 2020 北前船で栄えた湊町 酒田 & 見ているだけで寒い~子どもたちの飛鳥神社裸参り

https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7478241/


ZIPANG-2 TOKIO 2020~伝統の若狭瓦北前船で北海道へ~「小浜市の国重要伝統的建造物群保存地区を歩く(その4)」

https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4815904


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~郷土報恩の志~ (その2)「函館は異文化交流が重層した街 ・ 港がもたらした広い視野と融合の美学」

https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4743028/


ZIPANG TOKIO 2020「明治150年 旧小澤家住宅 日本遺産認定の一翼を担う!」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3643909/


ZIPANG TOKIO 2020「庭屋一如 旧齋藤家別邸 国指定名勝の建物・庭園の見どころと北方文化博物館本館、近隣のご案内(その弐)」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3635570/



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



協力(順不同・敬称略)

国立大学法人 弘前大学
〒036-8560 青森県弘前市文京町一番地 電話:0172-36-2111(大代表)

国文学研究資料館
〒190-0014 東京都立川市緑町10-3(Google Map) 電話:050-5533-2900 (IP電話 代表)

公益社団法人 青森県観光連盟 〒030-0803 青森市安方1-1-40 電話:017-722-5080

一般社団法人東北観光推進機構
〒980-0811 仙台市青葉区一番町2-2-13 仙建ビル8階 電話:022-721-1291

すみだ北斎美術館 〒130-0014 東京都墨田区亀沢2-7-2 電話:03-6658-893

株式会社東あられ本鋪
〒130-0014 東京都墨田区亀沢2丁目15番10号 電話:03(3624)3939(代)

誓教寺 〒111-0041 東京都台東区元浅草4丁目6−9電話: 03-3841-5631



※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



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ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)

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ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)

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ZIPANG-2 TOKIO 2020 (VOL-2)

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ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)

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ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)

https://tokyo2020-5.themedia.jp/   


ZIPANG-5 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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